老い行く女流作家の感慨

さて、やっと自分のブログらしいことを書きます。昔アメブロでやってた頃と時代は違うんでしょうが、SNSでもないこの字数制限のないブログというプラットフォームは自分に合ってるような気がします。

例えば、こういうコンサル系(決して自分ではコンサルと思ってないのですが、こういう呼び方しかないので書かざるを得ないのです)のホームページだと、経営に関するTIPSだとか、このようにしたら売上伸びるとかそうしたネタのみを書かねばならないものなのかもしれませんが、私は多分無理です(おいおい)。このようなお仕事が嫌いではないから続けていられるのは間違いないのですが、とはいえ一つに固定されるのは、私にとっては息が詰まるのです。ので分類だけはきちんとしておこうかなあと思っております。

さて、本題。

数日前に、私のエッセイで小さな賞を受けた記事は書きましたが、文芸系のそうした賞を受けた受けたときには、敬意を表して審査員の先生の作品の書評をやろうとそう決めました。いや、なんて悪趣味な。

今回、その一環として、審査員の一人である中山みどり先生の「透明な翼で」をよんで思ったことをつらつらと述べてみようかと。すみません、表彰式の時にいただいた本です。

表彰式の時にもらった本です。

出だしのつかみから第1部終わりまでは、物語のスピード感がもたついてるなあ、という感じがあった。これは一つには日本の伝統の「私小説」に則っており、「私は」という一人称がなかなか出てこないために、文章を読みなれていない私には文章の中身をGETするまでになかなか時間がかかったからであろう。

とはいいつつも、大筋こんなお話である。

重いアルバムの整理、というよりも破壊し破棄することに重ねて、小さい頃からの異性の友達秋山君に想いを馳せる。彼は2ヵ月ほど前に胃がんで亡くなった。小さい頃の満州での思い出、帰国してからのそこはかとない愛慕、お互いに家庭を持ってからのやりとり、そして胃を全摘出したよという電話を受けたのがついこないだなのに、もう鬼籍に入ったとの報。その報から自分も胃の調子は悪くなったような気がするが、何ら異常はないとの医者の診断だった。が、人生の最下流に差し掛かってきているのに、何も成してはいないことに気づく・・・。

実験的にあえて「私は」という一人称を除いて書いてみたが、なんと難しいのか。最初は読みにくいと思っていたんだけど、「私は」と書くだけですごく文章が格下チックになるのだな、うん、すごく勉強になりました。

さて、私の感想。

年を取るというのは嫌なことなんだけど、その時間軸の長さは年を取らねば長くならないのも事実で、その時間旅行的な行ったり来たりの回想は、やはり老作家しかできない技であるよな、という感想を持った。フィクションでは 福井 晴敏 の終戦のローレライなんかが終盤の時空の急速な流れがよかったのだけれども、今回のは私小説であるがゆえに、近事実という面において淡々とした筆致に関しては、こちらに軍配が上がるんだろうなとも思うのでありました。

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