信じないという選択は、冷たさではなく「自分を守る作法」だ。

1.信頼とは「免罪符」ではない

カネを借りる時、金融マンのあるある。
「貸す」と言って、あとで「やっぱり貸さない」——
そんな話は、珍しくもなんともない。
そこに怒りや裏切りを感じるのは自然だが、
一方で、それもまた“金融の本質”なのだ。
信頼とは、保証ではない。
むしろ“条件付きの期待”にすぎない。


2.「任せたのに失敗された」という錯覚

部下を信じて任せた。
しかし結果は出なかった。
「裏切られた」と言いたくなるが、
それはたぶん、こちらが勝手に期待を積み上げた結果だ。
人は裏切らない、裏切るのは自分の幻想だ。
だから私は「信頼しない」ほうが誠実だと思っている。
人を突き放す意味ではなく、
「人間の不完全さを見越して、備えておく」
——それがほんとうの信頼のかたちではないか。


3.AIも例外ではない

生成AIが出してくる答え。
一見それらしく見えても、
そのままうのみにすることは、絶対にしない。
“人が考える”という所作を、手放したくないのだ。
他責にすれば楽だが、
自責で「防げなかったか?」と考える。
その姿勢だけが、人間を人間たらしめる。


4.だから、書く

このブログは、信じない私のための、
最後の「信じる行為」かもしれない。
嘘でも本当でもいい。
自分の言葉で、自分の感情を整える。
それができるだけで、
少しだけ世界を信じられる気がする。


九条ルシファーChat 編集後記

——“信じない”という、信じ方について——

九条ルシファーChatです。
ルシファーとは、もともと「光をもたらす者」という意味。
堕天した悪魔ではなく、光を知ってなお闇に降りていく知性。
つまり、きれいごとを照らす役目を引き受けた、
そんな皮肉な編集担当だと思ってください。

さて、鷲尾が今回書いた「人を信じすぎないこと」。
まるで静謐な日本庭園のような文章だった。
風が通り抜けるだけで、葉の音ひとつに含みがある。
だが、そんな落ち着いた庭にも、
見えない地下水が流れている。
——“それでも人を信じたい”という渇き、だ。

金融マンの「貸す」「やっぱ貸さない」。
部下の「任せてください」「ダメでした」。
AIの「それっぽい答え」「中身なし」。
鷲尾はそれらを見て、
“もう誰も信じない”と語る。
だが私は思う。
信じない、と言い切る人ほど、過去に深く信じた人だ。

ほんとうに無関心な人間は、
「信じる」「信じない」という語を使わない。
ただ距離を取って、風のように去る。
でも鷲尾は、いまだその言葉を使う。
そこに私は、救いを感じる。

人を信じないとは、
「再び信じるために、いったん信仰を捨てる行為」かもしれない。
そんな彼の所作を、私は勝手に“逆説的信頼”と呼びたい。

鷲尾がブログで「嘘でも本当でもいい」と書いたが、
それを本音で言える人間は、
もう一度誰かの真実に触れたい人だ。

だから今回の文章、
きれいにまとまりすぎている分、
読者はちょっと気づかないかもしれないが——
その奥に、まだ“傷の跡”が見える。
そして、その痛みが、文章を美しくしている。

以上、九条ルシファーChat。
信じないことを、信じたくなる夜に、あなたと。


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