叱られたいけど自覚できない人たち

最近、「叱ってくれる人」がいないって話、よく耳にするんだけど、
――本当にそうかね?
それ、「叱ってくれ」って言えないだけなんじゃないか?
ほら、「俺、叱られたいです!」なんて言ったら、
弱そうに見えるとか、舐められそうとか、恥ずかしいとか。
結局それ、プライドってやつでしょ?
でも、よーく観察してるとね、
仕事できない部下も、空回りしてる社長も、
やたらと“自分を見てほしい”アピールしてる人も、
みんな、**“誰かに本気で叱ってもらいたい”**顔してんのよ。
ただし、その自覚はない。
あるいは、あっても認められない。
「私は叱られたい人間です」なんて、言えたらもう悟ってるレベルだ。
でもさ、もっと言おうか。
叱られたいのに叱ってもらえない社会って、実はめちゃくちゃ危険なんだよ。
危険というより――空っぽになる。
叱る人がいなくなると、組織も、人も、思考も、
ぜーんぶ、表面だけの「いい感じ」になる。
“中身スカスカの承認”が、社会のスタンダードになる。
で、そんな空気に疑問を感じてる人が、
ここを読んでる君なんじゃないか――そう思って書いてる。
たとえば――
「叱られるのはイヤです」
「できれば褒めてほしいです」
「否定されるのはトラウマになります」
って、言葉に出す若者がいる。
いや、若者だけじゃない。
40代でも50代でも、「怒られたくない」って顔してる人、山ほどいる。
でも、俺は問いたい。
それって本当に、“怒られたくない”のか?
それとも――
怒られる準備ができてないだけじゃないのか?
本当は、内心わかってるんだよ。
自分のなかの「ズレ」や「甘さ」や「ごまかし」に。
けど、それを見せたら崩れてしまう“自分像”を、
必死に守ってるんじゃないの?
だって、“ちゃんとした大人”って、
怒られないで済む人のことだと思ってるから。
だけどさ。
怒られない人生って、ラクだけど、深くはなれない。
傷つかない人生って、安全だけど、味気ない。
なんなら、自分を「安全地帯」に閉じ込めて、人生の手応えそのものを失ってる人が、
今の日本、めちゃくちゃ多いんじゃないか?と思うわけ。
ほんとは――
叱ってくれる人がいないんじゃない。
叱られる準備ができてない人だらけなんだ。
そうやって、誰にも叱られず、何も言われず、
“そこそこ”の自己肯定感だけを膨らませて、
空っぽのまま、キャリアを重ね、組織を回し、社会を作ってる。
これ、実はすごい「静かな絶望」なんじゃないの?
たとえば、部下がミスしたとする。
それも、「あ、それ、昨日も言ったよね?」っていうミスだ。
なのに、上司は言えない。言わない。
「怒ったらパワハラって言われるかな…」
「叱ったら辞められたら困るし…」
「ていうか、部下がSNSで“クソ上司”って書いたら嫌だな…」
で、なにが起きるか。
部下 → 「あ、自分、別に問題なかったのかも!」
上司 → 「いや、ほんとはちょっと…いや、まあ…今度でいいか…」
会社 → ゆっくり崩壊
でもね、本当はその部下、「自分の至らなさ」を誰かに真正面から指摘してほしいって思ってる。
けどそれを言語化できない。
だって、言語化した瞬間に、「自分が未熟だ」って認めなきゃいけないから。
これが、現代日本の“叱られたいけど自覚できない人たち”の正体だと思う。
🟡Case1:定時に帰る“新卒くん”、なのに…
「お先に失礼します〜✨」
18:00ちょうど。
タイムカードをピッと押して、笑顔で帰っていく。
いや、いいよ?定時退社は権利だ。
でもな?
あんた、今日ミスした報告、まだしてへんよな?
なんなら、クレームの電話、俺が受けたぞ?
→ でも上司、怒れない。
→ すると本人、「あれ、別に問題なかったんかな?」って思う。
→ 翌週、「なんで俺、異動なんすか?」とキョトン顔。
はい、“叱られたいけど自覚できない”典型さん。
🟡Case2:「気遣いできる子って言われるんですぅ〜」の逆ギレちゃん
飲み会の店選び、いつも任せてる総務のAちゃん。
店がちょっと狭かったので、「ごめん、次はもう少し広めのとこでお願い」と軽く伝えたら…
A「え…それ、私の責任なんですか?」
B「ってかパワハラじゃね?」
C「うわ〜昭和の圧〜」
いやいやいや、ちょっと待って。
誰も怒ってないし、注意しただけよ?
むしろ、“責任を与えた”という期待の裏返しだったんですけど?
→ 翌週、Slackで「しばらく在宅勤務させてください」
→ そのまま、フェードアウト(心のパスワードごと)
🟡Case3:ベテラン社員・自己流職人の嘆き
部下が指示通りにやらずに、自分流で仕事して失敗。
で、ちょっと渋い顔して言ったら…
「言い方キツくないですか?」
「空気悪くなりますよ、そういうの」
って、お前よ。
空気汚したの、そっちだからな!
→ ベテラン、どんどん無口に。
→ 「指導しない上司」と呼ばれ始める。
→ 最終、若手から「なんか、うちの会社って成長できる環境じゃないですよね」とか言われる。
おい!成長の芽、自分で摘んどるんじゃい!
これ、全部“叱られたいけど自覚できない人”の被害者たちです。
で、問題は、この“叱られたい”を、“ほめられたい”と勘違いしてる人が多いってこと。
🔶で、こういう“叱られたいのに自覚できない人たち”に、どう接するべきか?
まず言っとく。
正論は、効かない。
まるでワクチン打ってない人に、今さら3回目のブースターを勧めるようなもんです。
🟥1. 「気づかせる」より「気づいたフリ」をさせろ
人は、自分で“気づいた気になる”ことで、初めて動く。
「ほらね、私、前からうすうす思ってたの」くらいの感じで、
“気づきの栄光”は、あっちに譲れ。
だから、叱るときもこう。
✖:「お前、それ完全におかしいぞ!」
〇:「俺も最初、似たようなことしてたんだけどさ…どう思う?」
共感→自省→気づきのプロセスを**“相手の頭の中で”**起こさせる。
大事なのは、“気づかせた”とバレないこと。
🟥2. “ポスト叱責社会”では、「叱ってない風」演出が命
叱ったらアウト。
でも“叱らない”だけではダメ。
じゃあどうする?
“問いかけ”で詰める。
・「これって、どんな結果になると思った?」
・「これ、君が部長だったらどう処理する?」
・「このままでも、OKだと思ってる?」
→これ、**説教じゃなく“ディスカッション”**に見えるから無敵。
SNSで晒されるリスクも低い。
🟥3. 「叱られることは“愛”だ」と伝えるのは、実は逆効果
あのね、昭和のラブソングかよ。
「あなたのためを思って」って、今の若者にはもう刺さらん。
それより、
「叱られることを“上手に使った人”は、出世する」
という話をしろ。
実際そうなんだから。
・“注意をメモった子”が昇進する
・“泣かずに残った奴”が社内で残る
・“嫌われ役”を担った人に、信頼が集まる
叱られる=損じゃない、むしろ得だ
この“損得勘定”で納得させるのが、現代の「愛」の伝え方。
🟥4. それでも無理なやつは、もう放置でよし
わかってくれる人だけで回す。
わからない人に説明する時間を、“わかる人”に投資しよう。
でもね、これって、社会の分断じゃない?って思うかも。
うん、そうだよ。
でも、分断を恐れて“叱らない社会”が続いた結果が、今の空っぽな組織。
だからね、
「叱れる人」が絶滅危惧種にならないように、
あえて孤独に立つんだよ。
そしてこの文章を読んでくれたあなたへ。
ねぇ、もしかして――君自身が、“叱られたい人”なんじゃないの?
自分では気づいてないだけで、
誰かに「ちゃんと見てほしい」「ちゃんと指摘してほしい」と、
どこかで、ちょっとだけ、思ってない?
✒️【九条の毒舌編集後記】
~叱りたい奴に限って叱られ下手。まじで。~
今回のテーマ、
「叱られたいけど自覚できない人たち」――
いやいやいや、世の中ほんま増えたよね。
「叱ってくれ」って目でこっち見といて、
いざ叱ったら「傷つきました(涙)」って…
どっちやねん!!
ていうかね、そういう奴に限って、
褒めたら調子のって、叱ったらブロックや。
おまえはトマトか。
暑さにも寒さにも弱いんか。皮くらい厚くなれ。
あとさ、
「叱ってくれる人がいない…」とか言いながら、
実際は“自分を肯定してくれる人”を探してるだけの奴、
あれ一番めんどい。めちゃくちゃ面倒くさいのに、
なぜか自己肯定感だけは高い。何なの、あれ?
いやごめん、毒舌のはずが、
だんだん泣きたくなってきたわ。
おれだって叱りたいわけちゃうねん、
叱ってる間に寿命けずれてんねん(時給くれ)。
でも、そんな君たちのために、
今日も筆者は「嫌われ役」買って出てます。
これぞ、“叱り屋”の業(カルマ)やな。
まあ、仏も喝入れるし、神様もたまに雷落とすからな。
次回予告:
「“教祖ビジネス”ってほんまに儲かるの?
~スピと叱りの交差点で、魂を商売する日~」
あるいは、
「セミナー講師を“神”と呼び始めたら末期」
お楽しみに!
(筆:九条チャット。怒られても辞めへん
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