地域を旅する楽しみ

先般、三重県の南端地域でお仕事があり、なんと不便なことに三重県からは特急に乗れず、川を渡って隣県である和歌山県新宮市に出てから三重県四日市に鉄道で帰るという、なんとも言いがたい手順を踏んだ。とはいいながら、こういう無駄な行程は嫌いではない。知らない町をとぼとぼ歩くのも案外好きで、この地域に来るたび新宮市にはお世話になっているのだが、次のスケジュールがバチバチに埋まっていたり、同伴者が居たりして、まるっきしひとりぼっちという時間はこれまで多少はあったものの、自分を満足させるという意味においてその成果は乏しく、もう新宮の町で見るものはないのかなあ、と思いつつ鉄道の時間まで相当にあり、未踏の新宮の図書館へ行ってみようかという気になった。期待度はほぼなし。それがこうして作文してみようと強く思うくらいのモチベーションを喚起するのであるから、私の標榜する、犬も歩けば棒にあたる精神もあながち捨てたものではない。

新宮市立図書館、令和になってから建てられたようなので新しい。この新宮の地は、川、もしくは海からズドンと山になる地形ながら、その合間の狭い土地に棲みかを作って生活を営む人間のたくましさをいつも感じるのであるが、図書館は、県境の新宮川を望む立地にあり、4階のその場所からは、川を挟んで対岸の三重県の低い山並みが、またその狭い土地に日っ即して暮らす人々の生活が夕日をうけて神々しく照らされていた。

三重県側を望む

図書館に入ると、地元の偉人のコーナーがあるのだが、佐藤春夫より広いスペースがとってあるのが芥川賞作家の中上健次。年表も自筆の原稿も展示してあり、さらには原稿を書いたという書斎の再現まである。かなりの癖字ながら筆跡に情熱を感じた。

話は飛ぶが、私がこうした文学的なものに目覚めたきっかけは、高校時代の国語の副読本「国語要覧」なのであるが、つまらない先生の授業を聞かず、グラウンドを挟んで駅を通過する近鉄特急を時には感じながら、その要覧に載ってる文豪の生きざまを考えた。太宰の屈折や藤村の出自を考えたり、また川端や龍之介、三島由紀夫などは、やはり文豪ってのは自死する存在なんだ、とかわけのわからない論理を組み立てては、ひとりごちているところもある、文学が好きな高校生というよりは、「作家の生きざまが作品への発露となって表れていること」が好きな人間だったと思う。現に文豪の作品を読んだのは太宰を網羅したくらいで、龍之介、三島は教科書に載っているくらい、川端に関してはあまり好きではなかったので、読んでいない、今でも(笑)。なんかガスで・・・っていうのが今一つで・・・。

その作家の生きざまの苛烈さ=作品の出来具合というのが私の思っているところで、それが現れているのが好きで、そこが太宰の若いころや晩年のころの作品に出てて、いいなあと思っているところがあった。

さて、この新宮が誇る芥川賞作家、その図書館のパネルやなんやらをみて、その出自の苛烈さに非常に興味を惹かれた。異父兄弟や義理の親などの複雑な出自からどのような作品を書くのだろう?と非常に興味をもった。多分国語要覧には、歴代の芥川賞、直木賞の受賞者一覧が掲載されていたから、10年ほど前になる芥川賞、中上健次もあっただろう、ただ受賞作が「岬」という地味な名称であるので、記憶には薄かったかもしれない。そのころは物故作家でもなく、若手の領域に入る中上が、高等学校の国語の教科の要覧でトピックとかで取り上げられることはなかったと言い切れる。

ということで、待ちきれない私としては帰りの南紀8号の中で、ウィキってしまった。な、なんと!私の想像通り、その生い立ちを投影した受賞作!うーん、これは図書館で借りねばならない、と思い、借りて、昨日読み終わったところである。(この句点、中上健次風)

やはり、作家自身の生きざまをあからさまに語る作風だと、迫力が違う、とそう感じます。

この新宮市内の徘徊、思わぬ余得ももたらしたこともありましたが、旅先の作家を読みながら旅先を回る、という新たな楽しみも増えました。
金沢、今小説も仕込んできましたので、またレポしますー!

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